今日から続けて、戦国時代・惨劇物語!

群雄割拠の戦国時代は天下取りの為ならば・・・と犠牲もつきものでした。よく言われるのが織田信長ですが、有名武将たるもの結構してます。そんなエピソードを・・・・。では、手始めに軽く・・。伊達政宗。皆さんも知っているとは思いますが書きましょう。仙台藩主、初代の藩主。10年早く生まれていたら天下を取っていたかもと言われるくらいの人物ですが、伊達政宗、15歳で初陣し、18歳で当主になります。伊達家はもともと鎌倉時代にまでさかのぼる、由緒正しき名家で室町時代には南東北の最大勢力になっていましたが、お家騒動などで勢力は弱まり、政宗の時代には敵だらけでした。そして、政宗家督を継いだとき、大内定綱がそれを祝う為に米沢城へ来て、「自分を政宗の配下にしてほしい」と言ってきたのです。「春には妻、子を連れて又来る、」と言い残し帰っていったのですが、春になっても来ない、おかしいと思った政宗が使者をだしたのですが、
政宗に従うつもりはない!」と使者を追い返しました。政宗はこれに激怒します。名門伊達家に傷がつくと、怒りにまかせて小手森城を攻撃しました。城はすぐに落城しましたが、それでも気が収まらず、城内にいた500人の兵士を皆殺しにして、さらに、女、子供1000人以上をすべて「撫で斬り」にしました。
 そして、政宗は伯父の最上義光に手紙で報告しています。全文は書きませんが
無抵抗の子供、女性を皆殺しにした事を自慢しているような感じで書いてあります。そして、「この上は須加川まで打ち出て、関東中へも手安く候」・この調子だと、大内どころか、関東までも手にはいっちゃうよ・・・と10代の小僧が言っているのです。
  ただ、この後大内は、政宗に恐怖して、自分の城に火を放ち蘆名氏のところへ逃げ、畠山は和議を申しいれます。そして、この後、政宗の父輝政が畠山に拉致され、政宗が打ったのかどうかわかりませんが、悲しい死をとげます。
  とこんなところで・・・・・・・次は武田家の悲惨劇です。
       では、では・・・・・・・・。