7月19日、徳川家康が留守にした伏見城を、石田三成の命を受けた毛利秀元小早川秀秋らが攻撃・・・あの関ヶ原の合戦へ向けての、武力闘争が開始されました。
家康が、「このまま、豊臣傘下の大名として生きるのではなく、自分こそが次に天下を握る者なのだ」と考えている事は、誰の目にも明らかでしたが、秀吉の死の寸前、五大老として制約をかわした以上、あからさまな裏切りに行為に走っては、周囲の反感を買うだけです。

なんせ、まわりにいるのは全員、一応、豊臣の家臣なワケですから・・・。

しかし、秀吉という大黒柱を失った豊臣家には、秀吉とともに合戦で血と汗を流してきた武闘派と、天下を取ってからの政治をサポートしてきた文治派との間に、大きな溝ができ始めていました。

家康はそこに目をつけ、福島正則加藤清正ら武闘派の面々を味方に引き入れつつ、豊臣氏の持ち城であった伏見城に居座り続け、『重要事項は五大老五奉行の協議で決定する』という先の誓約を破り、重要事項を独断で決定し始めます。

相手をブチ切れさせるための作戦です。戦を仕掛けるには大義名分が必要です。
それがないと、ただの謀反になってしまいます。

もちろん、文治派のリーダー的存在の石田三成は、これらの家康の態度に難色を示し、一触即発の緊張した状態となりますが、さすがは文治派、なかなかその「一触」を仕掛けてはきません。

そこで、家康は、自分が居座り続けている伏見城を、留守にする事にします。
自分が、伏見城にいなければ、「きっとその間に取り戻そうとするに違いない」と睨んだのです。

ちょうど、その頃、五大老の一人・越後の上杉景勝が無断で領国へ帰り、その後「五大老なのに、ちっとも京へやって来ない」という出来事があり、この行為を「謀反にあたる」と、難くせとも言える理由をつけて、家康は景勝の本拠地・会津城(福島県)へ向かうのです。

そう、はっきり言って、伏見城は「おとり」となったのです。

伏見城の留守を預かるのは、本丸の鳥居元忠内藤家長、三の丸の松平家忠・松平近正、以下、1800名ほど。

家康の未来のために、捨て駒となった彼らの前に、慶長五年(1600年)7月19日、予想通り、三成の命を受けた毛利秀元小早川秀秋が現れ、伏見城に猛攻撃を仕掛けるのです。豊臣方の軍勢は4万以上の大軍。
それでも、連日連夜の猛攻撃に、櫓一つ落ちなかったのは、やはり、捨て身の彼らの必死さでしょうか?

25日には宇喜多秀家が、29日には石田三成自らが出馬し、さらなる猛攻撃を仕掛けます。

最終的には、伊賀の忍びの者を使い、城のあちこちへ放火する作戦に出る豊臣勢。

さすがの伏見城・防衛隊も、同時多発の放火には対処できず、とうとう豊臣方の城内への侵入を許してしまいます。

攻撃開始から14日目の8月1日午後、伏見城は落城しました。

三の丸の松平家忠は討死。
城将を務めていた鳥居元忠は、その場に生き残っていた約300名とともに、本丸の廊下にて自刃します。
ところで、京都・東山区三十三間堂から道を挟んだ東側に養源院というお寺があります。この養源院の本堂の廊下の天井には、伏見城・落城の時に、鳥居元忠以下の将士たちが、最後に自刃した廊下の板の間・・・彼らの血に染まった板が使用されていて、『血天井』と呼ばれています。怖いとおもいますが、
明日をも知れない戦国の世で、城を守るために自刃した彼らの霊は、尊敬の対象にはなっても、怖がる存在ではないと言う事。

だからこそ、英雄の事を忘れないために血に染まった廊下を保存し、「足で踏むなどもったいない」と天井にあげたと言われています。 鳥居元忠の顔の向き、手、足とくっきりでています。皆さんも是非、見て来てください。では・・・・