今日は陽気もよく沢山のお客様がきていただけました、ありがとうございました。

今日来て頂いたお客様ありがとうございました。感謝しています。またご来店お待ちしております。さて、今日はこの人物に迫ってみましょう。戦国BASARAの中では2丁拳銃を操る帰蝶こと、濃姫濃姫って、いつまで生きていたの?本能寺の変の時には一緒にいなかったとも言われます。資料が少なすぎの人物です。
おもしろい、やってみるでござる。信長の正室である濃姫・・・それでも、結婚当初からしばらくは、この婚礼に大喜びの信長が宴会を催した話や、ともに津島神社(愛知県津島市)のお祭りに出かけた話などで、その姿を感じとれますが、後半に至っては、まるで、そこにいなかったかのように、濃姫の存在とその死さえうやむやになってしまっているのです。

ドラマなどでも、濃姫と呼ばれる彼女ですが、ご存知のように、これは「美濃から来た姫」という意味での呼び名で、本名を帰蝶(きちょう)とする文献もありますが、実際のところはわかっていません。彼女は、信長との間に子供ができなかったようで、そのために記録として残る事が少なかったと思われますが、それにしても、あれだけ信長の事が書かれてある『信長公記』でさえ、その死について、まったく触れていないでござるよ。
信長には、ご存知、信忠という息子がいますが、この信忠を産んだのは、濃姫ではなく、美濃・郡村(岐阜県江南市)の豪族・生駒氏の娘の吉乃(きつの)という女性・・・

いくつかの史料で、この吉乃さんの事を、「御台(みだい)」という正室の呼び名で記している事から、この信忠誕生の時に、すでに、信長のそばにはいなかったのでは?という説もあります。
それは、長良川の合戦で、義父の道三が息子の義龍(よしたつ)に敗戦して命を落とした事で、道三との同盟としての役割を終えたというものです。よって、必要ではなくなった濃姫は、美濃へ返されたか、母の実家の明智氏に返されたか、中には、殺されたなどというウワサもあります。

しかし、長良川の合戦の時に、「援助してくれたら美濃をあげよう」という道三から信長への手紙もありますし、たとえその手紙が偽作だったとしても、この先、美濃を攻める信長にとって、濃姫がいなかったら、「義父の弔い合戦」という大義名分が無くなるわけですから、道三の死の時点で、濃姫が不要になる事は考え難いです。

ただ、病死という事はある!ある!ですぞ!

『濃陽諸士伝記(のうようしょしでんき)』という書物には、永禄四年(1561年)にかの義龍が亡くなった頃には、濃姫が死亡していた事を感じさせる記述もあります。

しかし、山科言継(やましなときつぐ)という公家の書いた日記・『言継卿記(ときつぐきょうき)』には、その義龍が亡くなった後に、その妻が持っていた名器の壷を信長が欲しがった時に、「信長本妻が抗議した」と記されていて、斉藤家との関わりを考えると、この本妻というのは、濃姫の可能性が高く、だとすると、この時点では、信長のそばにいた事になります。

また、逆に、長生き説もある!ある!でござる。
よく言われるのは、「あの本能寺の変の時に、そばにいた」という説・・・。

これは、本能寺の変の時に「おのう」という女性がそばにいたと記されている事からきているようですが、この時の「おのう」という人には、本妻とも正室とも御台とも書かれていません。まったく別の女性で侍女か何かだった可能性もあるのでござる。

濃姫が本当に濃姫と呼ばれていたのかすら危ういわけですから・・・。

更なる、長生き説としては、信長の菩提所・縈見寺(そうけんじ・滋賀県安土町)の織田家過去帳には「養華院殿粟津妙大姉 慶長十七壬子七月九日信長公御台」とあり、この養華院さんが濃姫だとしたら、慶長十七年(1612年)という大坂の陣の2年前まで生きていた事になるでござる。

また、京都の大徳寺塔頭総見院織田家墓所にある五輪塔の一つにも、「信長公御台」と刻まれた物があり、こちらも年号は慶長十七年となっているので、やはり78歳前後というご高齢まで健在であった事になるでござる。

ただ、上記の通り、「信長本妻」「信長公御台」という記述が、濃姫を指すとは限らないわけで、ミステリーーーーですな。

うーーーーん!濃姫帰蝶の資料がすくなすぎますが、本能寺の変で一緒に戦った濃姫を思いたいですね・・・・。長くなりました、ではでは・・・・