梅雨もそろそろ明けますかな・・・・

今日は秀吉が家康の領地にを関八州を与えられるわけですが、後にこれは失策となります。関八州とは、関東8カ国という事ですが、この時点では、常陸茨城県)には佐竹氏、安房(千葉県)には里見氏、下野(栃木県)には宇都宮氏や那須氏などなど・・・まだまだ、戦国大名が群雄割拠していて実質的に北条氏が支配していたのは4カ国程度・・・しかも、その北条氏を滅亡させてのお国入りですから、地元が好意を持って受け入れるとは考え難い状況だったのです。

しかも、秀吉は、その後の家康の居場所まで、それとなく提示していたのです。

それは、まだ、小田原城を包囲してまもなくの石垣山城での陣中で、かの小田原城を見下ろしながら・・・

「もし、この城が落ちたら、家康にあげよかなって思ってる、そうなったら、家康はここに住むんか?」
秀吉の質問に、家康は・・・
「まぁ、そうなるでしょうね」
すると、秀吉は、小さく首を左右に振りながら・・・「ここは、軍事的に重要で危ない場所やから、他の血気盛んな家臣に守らして、君はもっと東にある江戸に居城を構えたほうがええ」

この時の何気ない立ち話で、家康は江戸城に入る決意をしたとされていますが、当時の江戸は、小さな漁村があるだけのかなりのド田舎・・・ここにも、家康をなるべく遠くへ、そして、城下町の片鱗すらない場所に追いやってやろうという魂胆が見え隠れします。
なんせ、この関東という場所はかなりのクセモノです。

秀吉は、この関東の歴史を知らなかったのか?
それとも、知っていてもなお、家康を遠くへ追いやりたかったのか?

そうです。
関東は、あの平将門の時代から、何度も、中央に反旗をひるがえす独立国家としての歴史を持っているのです。関東支配に乗り出した北条氏も、その独立国家の歴史を受け継いでいるのです。知っての通り後に家康は豊臣政権に反旗を翻します。