信長も魅了する松永久秀・・・・

松永久秀は・・・その生涯で、2度・信長に降伏し、2度・刃を交えています。最初は、織田信長が、第15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛した時・・・

この時は、敵対するというよりは、すぐさま恭順な態度を示し、名器と言われる作物(つくも・九十九)茄子の茶入れを差し出して、むしろ信長に気に入られ、義昭の家臣という居場所を確保しています。

その後、信長に2度叛旗をひるがえし、その2度目の叛乱で壮絶な爆死をしました。しかし、この最期の時も、信長は、「お前の持ってる平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜を譲ってくれたら、今回の謀反を許すぞ」と、魔王の信長とは思えない寛大な態度で接してします。

この「お前の持ってる茶釜をくれたら・・・」という交換条件は、それだけ信長がその茶釜が欲しかったとも言えますし、それだけ、久秀が価値のある人物だったともとれますが、最初の段階での信長が、「(謀反の)理由があったら聞くし、望みがあるんやったら言うてみぃ」と言ってるところから察して、久秀にそれだけの価値があったのだと思っています。
そもそも、「乱世の梟雄(きょうゆう)」と呼ばれ、13代将軍の足利義輝を、三好三人衆とともに殺害し、主君の三好長慶(ながよし)を毒殺し、その後、仲間割れした三好三人衆との戦いで東大寺の大仏殿を灰にしてしまう・・・その破天荒な暴れっぷりは読んでいても小気味いいですな。
こうして、京を掌握していた久秀の前に現れたのが信長・・・しかし、ここは、無理に反発する事なく、上記の通り、その傘下に入る事にします。

これまでの久秀の行動からすれば、実におとなしい応対ですが、ここは、チャンスをうかがっていた・・・というところかも知れません。まもなく、義昭と信長の間に亀裂が生じ始める中、義昭の呼びかけに応じて、越前の朝倉義景、近江の浅井長政・越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄・・・やがては、石山本願寺も参加しての信長包囲網が形成されますが、それでも、まだ、信長の配下として石山本願寺戦に参戦していた久秀・・・。

しかし、ついに義昭の誘いに応じて同盟を結び、さらに、あの三好三人衆とも仲直りし、信長包囲網の一角に加わる事になります。

これには、信玄の上洛も追い風になったのかも知れません。
「あの大物が上洛したなら、さすがの信長も・・・」という空気が、一瞬でも流れた事でしょう。

ところが、西へ進軍していた信玄は、この年の野田城攻防戦を最後に甲斐へと戻ってしまいます。
さらには、信長からの攻撃を受けて義昭が京を追放され、やはり信長の前に浅井・朝倉が倒れ、婚姻関係を結んでいた三好義継が河内若江城で敗死するに至って、ついに、信長に降伏し、籠っていた多聞城を明け渡したのです。

・・・で、この後は、信長の家臣である佐久間信盛の配下となって働くわけですが・・・そうです、やっぱり、ここでも、信長は謀反を起した久秀を許しているわけです。

あの信長が、ここまで寛大な処置をとるという事が、久秀の魅力を買っているわけですが、そこまで、信長を魅了した彼の魅力というのは?

それは・・・センス!です。

先見の目というか流行の先取りというか・・・それが、彼はバツグンだったのです。

まずは、先ほどから登場している茶道具です。

最初の作物茄子の茶入れを貰った信長は、久秀に「大和一国・切り取り次第」というお墨付きを与えていますが、これは、「自分で攻め取ったところは勝手に治めちゃっていいよ」という事・・・それほど、信長にとって魅力のある品だったわけです。
そんな久秀のセンスは築城にも発揮されています。

ルイス・フロイスの記録によれば・・・
見上げるほどの高さの数階の建物(天守)があり、漆黒の瓦に真っ白な壁と西洋風の窓格子を設けた外国では見た事のないような立派な建造物だったと・・・。

白い壁は、石灰に砂を混ぜるのではなく、紙を混ぜていたようで、特に、その白さが強調される造りだったようです。

その内部の壁には歴史物語が描かれ、光り輝く真鍮(しんちゅう)の柱には、菊の花が彫刻され、見事な庭園を備えていたのだとか・・・

さらに、城下を歩けば、、「今できたばかりなのではないか?」と思わせるほどの、清潔で白く輝く道が続き、まるで天国のようだったと・・・。


今も、全国各地の城に残る多聞櫓(たもんやぐら)という建物・・・
久秀の多聞城に造られた久秀デザインの櫓だからなのです。
守りに強く、見た目に美しく・・・この多聞城にあった櫓を、ことのほか気に入った信長が、自らの築城に採用し、さらに、その良さを実感した大名たちが、自らの城にも採用して全国的に広がったらしいです。

謀反を起しても寛大な処置・・・信長にとって、久秀のセンスは、殺すに惜しい魅力的なものだったのかもしれません。このへんで・・・ではでは。