今日は幕末!

6月14日、第二次長州征伐の芸州口の先鋒として進軍していた彦根藩・井伊隊に長州軍が奇襲攻撃・・・芸州口の戦いが開始されました。6月14日朝・・・幕府軍の先鋒を仰せつかって意気揚々と街道を進むのは、彦根藩・井伊隊・・・あの井伊直政が武田から受け継いだ、おなじみの『井伊の赤備え(あかぞなえ)』でビシッと決めた一隊は、大野を越え小瀬川(こせがわ)に差し掛かります。「我こそは!」と、二人の従者をともなって、先頭を切って小瀬川を渡ろうとするのは彦根藩士・竹原七郎平・・・しかし、そこへ、突然、山上に身を隠していた長州軍が、その3名を狙撃!

実は、彼ら先鋒がやって来る前に、長州の狙撃部隊は、少し上流で渡河し、すでに、山中に潜んで待っていたのです。

七郎平ら3名の死が合図であったかのように、長州軍は縦横無尽に山中を駆け巡り、微妙に身を潜めながら河畔の井伊隊に銃撃を繰り返し、井伊隊は大混乱となります。はなから、数で圧倒的に差のある政府=徳川幕府と戦う長州は、まともに戦っては勝ち目はありませんから、当然、奇襲の連続のゲリラ戦を行う事になるのですが、このゲリラ的作戦に供えて、軽装の軍服に、必要な物は一切持たないという身軽な状態の準備が整えられていたのです。

しかも、手にした武器は、坂本龍馬の仲介で薩摩藩から流してもらった最新鋭のミニエー銃・・・さらに、訓練に訓練を重ねた精鋭たちは、200m先に吊るされたコインを撃ち抜くという名手揃い・・・

一方の井伊隊は・・・

もはや、時代は幕末・・・関ヶ原でその名を馳せた赤備えも、今となっては時代遅れ以外の何物でもありません。

馬に乗る者は横倒しとなり、海に逃げようと小舟に殺到して溺れ死ぬ者が続出する中、自慢の赤備えの具足は、逃げるに重いと、その場にうち捨てられたと言います。
そして、この井伊隊の敗走を聞いた高田藩・榊原隊・・・後方に位置していた彼らは、戦う事なく撤退する事になってしまいました。

こうして、芸州口の初戦は、長州の圧勝となり、広島へ逃げ帰った両隊は、残りの藩に大いにバカにされた・・・という事ですが、ここで、彦根藩高田藩のためにも、一つ、付け加えておかねばなりません。

それは、この第二次長州征伐は、長州と幕府の戦いである・・・という事です。


彦根藩高田藩に限らず、未だ多くの藩が、心の底では戦いたくないという気持ちを持ったまま、しかたなく参戦し、火縄銃と槍で戦おうとしたり、ほら貝を吹いて突撃命令を出すといった戦いかたをやっていたのが、この第二次長州征伐だったわけです。井伊隊が去った後、その勢いのまま東へと向かい、安芸へと進攻しようとした長州軍でしたが、井伊隊の後を埋めるべくやってきた紀州藩・新宮城主の水野忠幹(ただもと)隊・・・当主自らが軍を率いている事でもわかるように、ここはヤル気満々で、しかも西洋式の装備を持っていました。

6月19日、四十八坂で激突する両者でしたが、長州軍がいくら押しても水野隊は撤退する事なく応戦し、結局、この場所だけは、両者引き分けの膠着状態となり、他の場所の展開へと、その結果をゆだねる事になります・・・・・
 長くなるのでこの辺りで・・・