今日は山崎の合戦の日!でござる。

今でもスポーツなどで、先行きを決定付けるような重要な試合を「天王山」と呼ぶのは、この戦いの由来です。羽柴(豊臣)秀吉と明智光秀・・・ともに畿内の武将たちに味方になるよう声をかけていた中、「主君の仇討ち」を大義名分に掲げた秀吉には続々と集まります。その一方で、光秀側には、筒井順慶も来ず、頼りにしていた娘・お玉(ガラシャ)の夫・細川忠興も、その父・藤孝(幽斎)も参戦する事はなかったのです。12日に洞ヶ峠を下りた光秀は、直属の部下1万6千の兵で、秀吉軍4万に挑むべく、戦いの地・山崎へ向かいます。

光秀には、少ない兵で立ち向かう唯一の秘策がありました。
それは、大坂から京都へ向かう交通の要所・山崎で敵を向かえ撃つ事です。

山と川が接近しているため幅が狭い!しかも、その横に大きな沼もありました。
秀吉の大軍は、大軍だからこそ、ここを一気に通り抜ける事ができないのです。
「狭い空間で、しかたなく縦長になった軍を、一つ一つ崩していけば勝機はある」と、光秀は思ったに違いありません。

そのためには、秀吉軍より先に山崎に着いて、準備を整えなければなりません。
敵が、その先の広い場所へ出てしまっては勝ち目がありません。

幸いな事に12日の時点で、敵は摂津富田、こちらは洞ヶ峠・・・川越えはあるものの、少しこちらが距離は近い。

光秀は、その日のうちに山崎に到着して、秀吉軍を迎え撃つ準備を整えます。
そして、いよいよ明けて6月13日・・・

狭い場所からの出口部分に扇形に先鋒を配置する光秀・・・。

やがて、秀吉軍の先鋒・中川清秀高山右近が天王山のふもとに陣を敷きます。
その後ろには羽柴秀長(秀吉の弟)、そしてもちろん秀吉も続きます。

戦闘は申の刻・・・午後4時半頃開始されました。

まずは、光秀軍の斉藤利三・並河掃部・松田太郎左衛門・津田正時ら先鋒が秀吉軍の先鋒に突撃します。

しかし、さすがに、秀吉軍の先鋒・・・そう簡単に切り崩せる物ではありません。
光秀軍の先鋒は苦戦を強いられます。

その間に、秀吉軍の池田恒興・加藤光泰・木村隼人らが、淀川の際をすり抜けて光秀軍の東側を攻め立てます。

ここを守るのは、伊勢与三郎・御牧三左衛門・諏訪飛騨守といった面々でしたが、こちらは主力でなない少し手薄の軍・・・たちまち苦戦に陥ってしまいます。

そこを、すかざず秀吉軍・本隊の大部隊が、その後ろを通り抜け、天王山の東側の広い部分に出てしまいます。
戦闘の火蓋が切って落とされてから、わずか1時間後の事でした。

本隊が広い場所に出てしまえば、後は数の問題・・・もはや戦況は見えています。
はやくも、勝利の気持ちたかまる秀吉軍・・・一方の光秀軍は敗走するしかありません。

約3時間ほどの戦いで勝敗は決しました。
夕暮れ迫る闇に紛れて、光秀は本陣の後方にあたる勝龍寺城へと逃げ込みます。

しかし、この勝龍寺城は、城と言っても砦に毛の生えた程度の平城で、とても秀吉軍の追討を迎え撃てる城ではありません。

光秀は、夜になるのを待って、本拠地である近江・坂本城をめざして勝龍寺城を出立します。
まだ、坂本城で再起を計るチャンスはあります。

しかし、一行が山科小栗栖(おぐるす)に差し掛かった時、突然藪の中から竹槍が突き出されます。
竹槍は落ち武者狩りをしていた周辺の村人の物でした。

即座に村人を撃退して、再び近江へ向けて進む一行・・・しかし、その時、突然、光秀が落馬をしてしまいます。

見ると、脇から大量の血が・・・。
先ほどの竹槍は、光秀に予想以上のケガを・・・・。

「もはや、これまで・・・」と悟った光秀は、その場で自刃し、付き添っていた側近が介錯をし、その首を敵に取られぬよう地中深く埋めたのです。智光秀、55歳・・・本能寺の変から11日目の事でした。

翌、14日には、坂本城にて、光秀の正室や子供たちが自刃し、完全に光秀の夢は露と消えました。

勝利した秀吉は、亡き織田信長の後継者争いに名乗りを挙げる事になります。
 光秀にはいろいろな説がありますが、どれを信じるかは自分次第です。これだ!と思えばこれなんです。ミステリーがあるから歴史は面白い。ですよね・・