備中高松城から・・・・・

6月6日からいよいよ、秀吉の「中国大返し」が始まります。6月2日、本能寺で光秀に討たれたニュースは徐々に広がっていきます。その日のうちに最初に、このニュースを聞いたのは、堺にいた徳川家康・・・身の危険を感じた家康は、決死の伊賀越えで、所領の岡崎を目指します。次に、このニュースを聞いたのが、織田軍・中国地方担当で、備中高松城を水攻め中の秀吉。光秀が毛利に放った密書が間違って秀吉に届くというラッキーで、全国に地方遠征中の他の織田軍・重臣たちより、1日早い3日の夜にニュースを聞きます。
秀吉に絶好のチャンスが転がり込んできました。
その気転の良さから信長に気に入られているとは言え、織田家には古くから仕える重臣が数多くいて、彼らから見れば秀吉はまだまだ下っ端・・・しかし、ここで、主君の仇を取れば、彼らを一気に追い抜く事ができます。

秀吉は、まず「信長死す」のニュースが毛利に知られないように、その夜のうちに山陽道を遮断し、翌4日の朝には、毛利に休戦を申し出ます。

「そのうち信長が大軍を率いてやってくる」と考えていた毛利は、この休戦協定をあっさりと受諾・・・その日のうちに城主・清水宗治が自刃し、高松城は開城されました。

気持ちがはやる秀吉ですが、やはり毛利軍の全面撤退を確認するまでは、この地を離れるわけにはいきません。

やがて、信長の死を知った毛利軍でしたが、もう、休戦協定を結んでしまった以上後の祭り・・・しかたなく撤退を開始します。

この間に、秀吉の腹心・黒田官兵衛は、その当時の秀吉の居城・姫路城までの帰り道の手配を整えます。
道筋に沿っての松明(たいまつ)・炊き出し・替え馬・渡し舟など・・・先駆けを走らせて徹底させます。

また、織田家配下の武将たちが弔い合戦に出遅れるようにと、光秀側につかないようにするため、「信長は生きている」とのウソの情報を流します。

主君の仇討ちという大義名分を掲げて己のチャンスをモノにしようとする秀吉・・・その秀吉のチャンスは、そのままその配下に従う家臣のチャンスでもあるわけです。
おのずと士気は上がり家臣たちが一丸となってそのスピードを速めます。

驚異的な80㎞を走破し、この日のうちに姫路城に到着します。

さすがに、疲れる将兵たちを見て、翌8日は姫路城にとどまり休憩・・・。

そして、9日の早朝・・・1万5千の兵を率いて、姫路城を出陣し、まずは大坂・摂津を目指します。

一方の光秀・・・10日に、「秀吉がもうすぐ尼崎に到着する」という知らせが届き、あわてて近江を出立して京に向かいます。

これは、光秀にとって大きな誤算でした。
あれだけの大事を引き起こしたのですから、そのニュースはいずれ知られる事になるにしても、それぞれ遠方で遠征中の織田家重臣たちが、大軍を率いて京に攻め上ってくるのは、早くても1ヶ月はかかると睨んでいたのです。

その間に畿内の主要部を支配下に治め、毛利の援軍と合流して・・・という青写真がすべて崩れ去りました。
まさか、200㎞離れた一番遠いところで、最強の毛利と対峙している秀吉が、たった9日で帰ってくるとは思ってもみなかったのです。
翌、11日に秀吉は尼崎に到着します。
淀川の向こうはもう大坂です。

ここで、秀吉は、茨木城主・中川恒興(つねおき)や高槻城主・高山右近といった地元の武将たちに味方になるよう声をかけます。それにしても、この秀吉の早ワザ・・・あまりの手際の良さに、一部では『本能寺の変』の黒幕では?もともと、中国攻めに信長の出陣を要請したのも秀吉ですし・・・。
光秀の毛利への密書も、「まちがって届く」という事がありえるのでしょうか?
ひょっとしたら、本当は秀吉への「暗殺成功報告」だったのかも知れません。

織田家配下の武将たちが弔い合戦に出遅れるようにと、光秀側につかないようにするため、「信長は生きている」とのウソの情報を流す』という所・・・これって、信長の遺体が発見されていたら、まったく意味のない事なのでは?
 実は本能寺へ信長はわざと、少人数で来た?感の鋭い信長ですから、謀反の疑いのある者のあぶりだし?をしようとしたのではないか。実際、「うつけ者」と言われていた裏側には織田家内の裏切り者をあぶりだそうとわざとしていたと言う事もあります。本能寺より二条御所に抜け穴があったのですが、何者かが知っていて爆破・・・生き埋め・・・・だから遺体が発見されない・・・これが秀吉の仕業としたら・・・・中国大返しもつながりませんか・・・・?