島津、あっぱれ!

サムライ本舗でも人気武将は真田、伊達・・・・島津義弘とかはでてきません。九州勢はなかなかでてきません。しかし、関が原の合戦の島津の敵中突破、これは見事というしかありません。留守役の元忠に、伏見城への入城をかたくなに断られた義弘は、その後、たまたま大坂に滞在していて、その時に三成が挙兵したために、なりゆきで西軍に加わってしまったわけです。西軍の敗色が濃くなった戦場・・・当の三成まで敗走した今、何とかせねばなりません。

かと言って、東軍に降伏するなど薩摩の男のプライドが許しません。

こうなったら、敵中に斬り込んで、華々しく討死するか、戦場を脱出するか、二つに一つ・・・。義弘は、華々しく散る事を希望しましたが、これには、ともに出陣していた甥の島津豊久が猛反対!

話し合いの末、結局、戦場を脱出する事に決まりますが、それには道はただ一つ、東軍の後方にある伊勢路を行くしかありません・・・まさに、敵中突破作戦!

午後2時、島津隊は、義弘以下、一丸となって、ただひたすら伊勢路を目指しはじめます。

これを見た東軍の井伊直政と本田忠勝が、両側から包み込むように、島津隊を追います。

島津隊は、地面に点々と一定間隔で、兵が座り込んで鉄砲を撃つという坐禅陣を組み、後ろの兵が鉄砲を撃っている間に、前の兵がその兵の後ろに回りこみ、次ぎにその兵が鉄砲を撃ち、その間に前の兵が・・・という動作を繰り返し、攻撃をしながら、徐々に後退していったのです。それでも、打ち寄せる大軍・・・すさまじい戦いの中、甥の豊久は、義弘の陣羽織を着用して奮闘・・・そう、何とか大将を守ろうと、自らがおとりとなったのです。

この脱出劇は、他の者が全員討死しようとも、義弘一人が生き残れば、薩摩の勝利なのですから・・・

しかし、奮闘空しく、その豊久は討死・・・。

今度は、それを見た家老・阿多長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)が、「我こそが、島津義弘なり!」と叫び、敵の注意を必死で惹きつけますが、やはり彼も、討ち取られてしまいます。

二人の身代わりの奮戦のおかげで、何とか戦場からの脱出に成功した義弘・・・村へ到着し、水口を経て、このあと大坂へ向かいました。

18日後、故郷の富隈(とみのくま)城にたどり着いた時は、わずか80騎となっていました。
この島津の脱出劇は、「島津の背進」と称され、敵である東軍からも絶賛されたと言いますが、無事に薩摩に帰ったとは言え、当然の事ながら、島津がこのまま無事でいられるわけはありません。

この後、家康は、「島津征伐」の命令を下すのですが、果たして島津の運命やいかに・・・と言いたいところですが、ご存知のように、島津が、ここで潰れる事はありません・・・あっぱれ、島津義弘