信長の死を知らず勝家、富山で奮戦!

6月3日、魚津城にこもっていた中条景泰らが切腹し魚津城を開城。
柴田勝家ら織田軍・北陸担当が北陸を制圧しました。
長篠の合戦で武田を破った織田信長でしたが、亡き信玄の後を継いだ武田勝頼はなかなかのキレ者で、なおも抵抗を続けます。

そして、信長にはもう一人、目の上のタンコブがいます。
そう、越後の上杉謙信です。

この頃、一向一揆衆に占拠されていた富山城・・・謙信は本願寺と同盟を結び、事実上富山を勢力圏内に取り込んだ後、翌年の天正四年には能登に進攻し、七尾城を陥落させます。しかし、謙信の死によって上杉家の後継者争い・・・御館(おたて)の乱が勃発するのです。この上杉家の内乱は、戦場こそ上越市新潟県)あたりではありましたが、上杉の勢力圏内の武将たちが度々その内乱に駆り出されるという事態を引き起こします。

当然、越中・富山を支配する武将たちにもお声がかかるわけです。
信長にとっては絶好のチャンス!この機に乗じて事を起こします。

まずは、神保長住・佐々長秋らを飛騨からの山越えで越中に進攻させます。
続いて、信長の秘蔵っ子・斉藤新五(美濃の斉藤龍興の弟)を派遣。

しかし、先ほど書いたように、上杉の内乱に巻き込まれ、ここらあたりの武将は留守がち。
留守を預かる者から見れば「今、登り調子の織田軍が攻めて来る」と聞いただけで、ビビリまくり。
富山・魚津といった大きな城ならともかく、それを囲む支城は、ほとんど戦う前に開け渡される状況となります。
 上杉景虎切腹によって、景勝の勝利となり、上杉のお家騒動は一応の決着が着くのですが、上杉がゴチャゴチャやってる間に、織田方は合戦らしい合戦をする事なく、越中の半分ほどを支配下に治めてしまいます。もちろん、それは上杉の内乱だけではなく、長住の神保氏がもともと越中の名門であった事や、佐々長秋が越中の情勢に通じ、地の利を生かした行動ができたという事も大きな要因ですが・・・。

翌年には、今度は柴田勝家加賀一向一揆を制圧します。そして、運命の天正十年・・・3月に武田氏を滅亡させた信長は、いよいよ北陸への進攻に本腰をあげます。

命令を受けた柴田勝家前田利家佐々成政(さっさなりまさ)の織田軍・北陸担当班は、すぐに富山城を奪回。
さらに、その北に位置する魚津城を取り囲みます。

4月に入ると織田軍の数は膨れ上がり、城を囲むその兵の数は4万に達します。
中で篭もる上杉方は中条景泰以下わずかに4千足らず・・・。

5月に入ってようやく越後から上杉景勝が、魚津城を救援しようと近くの天神山に陣を敷きますが、敵の数のあまりの多さにどうする事もできず、ただ見守るばかりでした。そんな中、織田方の森長可(蘭丸の兄)が信濃(長野県)から、滝川一益が上野(群馬県)から、留守になっている景勝の本拠地・越後の春日山城を攻めようとし始めましたから、景勝もたまったもんじゃありません。

景勝は魚津城内に篭もる景泰らに向けて、城を開け渡し越後へ脱出するようにうながした書状を送り、自らは越後へ撤退します。

景勝の撤退により孤立が徹底的になってしまった魚津城・・・。
景泰をはじめ、竹股慶綱(たけのまたよしつな)・吉江信景・蓼沼泰重(たでぬまやすしげ)らの武将は、議論の末、勧告を受け入れて開城する事を決定します。

ところが、どっこい、この降伏勧告は織田方の謀略!
相手を油断させたところで、佐々成政がいきなりの奇襲攻撃を仕掛けたのです。

「もはやこれまで・・・」と悟った景泰以下12人の武将は、6月3日、一斉に割腹し、命果てました。ここに北陸の地は、織田信長支配下となるのです。

・・・が、しかし・・・
そうです。
信長は昨日、本能寺で、すでに亡くなっているのです
もちろん、その事はここにいる誰も知りませんでした。
城で果てた景泰らも、そして、それを取り囲んでいた柴田勝家らも・・・。

勝家・利家らが主君の死を知ったのは、翌4日の事でした。