今日は戦国からもう少しさかのぼってみましょう・・・平将門の怨霊

みなさん、社会でもでてきますよね、関東で反乱をおこした・・・・って。平安京に遷都したあの桓武天皇のひ孫にあたる高望(たかもち)王が、“平”という姓を賜って上総の国に下り、その地を治める受領となりました。この高望王の孫が平将門です。

父・良将(よしまさ)の領地を受け継いだ将門は、同族同士の内紛に討ち勝ち、さらに関東各地へその勢力を伸ばします。

将門が、敵としていたのは、あくまでその地を治める国司や受領であり、彼らを派遣する朝廷ではなかったのです。

根っから親分肌の将門が、困った民衆や豪族に助けてーーと頼られる→相手をいさめに行く→相手は兵を出して抵抗する→強いから勝っちゃう・・・簡単に言えばこんな構図です。
しかし、ちょうど時を同じくして西国・瀬戸内でも藤原純友(ふじわらのすみとも)が反乱を起こしていて、京の都では、「東の将門は、西の純友と共謀して反旗をひるがえし、同時に上洛するともりではないか!」と、もっぱらの噂になり、公家たちは毎日怯えて暮らす事になります。

こうなると、朝廷もじっとしてはいられません。

将門の行動を国家への反逆とみなした朝廷は、藤原忠文征東大将軍に任命し、東海・東山道に「将門追討」の命令を下します。それに応じて兵を挙げたのが、平貞盛藤原秀郷の同盟軍。平将門(たいらのまさかど)は、平貞盛(さだもり)と藤原秀郷(ふじわらのひでさと・俵藤太)に討たれ、乱は鎮圧されました

秀郷が放った1本の矢が、「全身が鋼鉄の体である」と噂された将門の唯一の弱点・・・こめかみを貫きます。
翌日には、「将門討伐」の報告が朝廷に伝えられ、朝敵・将門の首は4月の終わりには都に届けられました。

しかし、将門の怨霊伝説はここから始まります。
京都・三条河原にさらされた首は、毎夜青白い光を放ち「わが身体はどこにある!ここに来て首とつながり、もう一戦交えよう!」と叫び、いつまでたっても腐る事はなかったと言います。

ある晩、その首が空高く舞い上がり、胴体を求めて東の空に舞い上がり飛んでいきました。
そして、力尽きて落ちた場所が、東京の神田橋のたもと・・・人々は“神田明神”を建て丁重に葬ります。

やがて真教上人という僧が、将門の霊を供養し建てた石塔が、大手町のオフィス街の一角にある“将門の首塚”です。
この首塚は、この平成の世でも、動かせば祟りがあるとして恐れられています。

今日はこんなところで・・・・・