最近、夏バテと疲れが重なり思考が低下中です。

今日は関が原の戦い、間近ということで流れをかきましょう。
6月 18日 徳川家康伏見城を出発
7月 2日 家康が江戸城に到着
石田三成は居城の佐和山城にて、大谷吉継と密談する。
(吉継は、家康の会津征伐に参加するつもりで、垂井まで来たところを三成に呼び出され、家康と戦う事をうちあけられますが、この時点では反対し、そのまま会津征伐に参加します)
8日 家康の指示で、榊原康政会津へ出陣
(家康自身は江戸城に残ったままです)
11日 大谷吉継会津征伐軍から離脱し、三成とともに戦う事を決意し戻る
12日 前田玄以増田長盛長束正家の三奉行に、西軍の総大将として毛利輝元に立ってもらうよう要請書を書いてもらい、安国寺恵瓊に手渡す
15日 書状を受け取った毛利輝元が広島を出発
16日 輝元が大坂に到着
17日 大坂城に人質として入城する事を拒んだ細川忠興の妻・ガラシャ(玉)が死を選ぶ
一方輝元は総大将を引き受けるつもりではなく、単に呼び出されたので大坂に来た・・・という感じでしたが、三成らに押し切られ、この日、西軍・総大将に決定。
同時に、三奉行による『家康弾劾状』(告発文)を作成し、各武将にバラまく
19日 家康が留守をしている伏見城を、三成の命を受けた毛利秀元小早川秀秋らが攻撃
21日 伏見城攻撃をまだ知らない家康は、一応、会津に向け出陣する
23日 家康が会津征伐の中止を決定。
(この日、家康が会津征伐の協力者・最上義光宛てに送った手紙によると「上方の雑説によりお働き無用」・・・つまり「三成らが発起したので、会津での合戦は無くなった」事を書いています)
24日 家康、下野小山に陣を敷く
25日 小山での軍儀
家康が、会津征伐と称して連れ出した軍の者に対して、毛利輝元が西軍の総大将になった事、ここにいる諸将の妻子が大坂城に人質となっている事を伝え、妻子のために西軍につくのも自由であるとしながらも、自分につくか?三成につくか?を問う。
うち、真田昌幸・幸村父子が居城・上田城へと戻り、長男・信之は家康側に残ります。

一方の伏見城攻防戦には、宇喜多秀家が攻撃に参戦。
26日 家康が、小山の陣を引き払い、諸将に西へ向かうよう指示を出し、自らは江戸城に戻る
29日 石田三成、伏見に到着、伏見城攻撃に参戦
8月 1日 西軍の総攻撃により伏見城落城
8日 東軍に属した前田と利長と西軍の丹羽長重が浅井畷で激突
9日 三成が美濃垂井に到着
11日 決戦の地が関ヶ原付近であると予想した三成が、大垣城主・伊藤盛正の家臣を説得し、大垣城に入る
14日 東軍の先発隊が清洲城に入城
この時、先発隊の福島正則らが、家康の使いである村越直吉に「家康殿はなぜ出陣しないのか?」と、詰め寄ったところ、「元・豊臣の家臣であった者が、誠に徳川に忠誠を誓ってくれるのかを、試されているのだ」と聞き、逆に発奮するように22日 東軍先発隊が木曽川を渡る
23日 東軍先発隊が岐阜城を攻略
1日に伏見城を攻撃した西軍主力部隊が、伊勢・安濃津城を攻撃

24日 安濃津城・開城
26日 岐阜城を攻略した東軍先発隊が、大垣城に攻め寄せず、垂井・関ヶ原に放火した事から、居城である佐和山城に攻め込まれると、不安を抱いた三成が一時佐和山城に戻る
同時に、大坂城毛利輝元に出馬を要請し、諸将にも関ヶ原付近に集まるように指示を出します。

9月 1日 いよいよ徳川家康が江戸を出立
2日 先の小山の軍儀で、城に戻った真田昌幸・幸村父子の籠る上田城を、家康の三男・秀忠が攻撃3日 安濃津城を攻略した西軍主力部隊が、松坂城を攻略後、長島城に向かう途中、「家康が出陣した」との連絡を受け、伊勢の平定を諦め、美濃方面へ向かう事に
7日 毛利秀元長宗我部盛親長束正家ら、西軍主力部隊が、南宮山に着陣
一方、上田城攻撃中の秀忠は攻略を断念
そして、天下を狙う第三の男・黒田如水(孝高)が、大混乱のこの期に乗じて再起を計った大友宗麟の息子・大友義統(よしむね)と、一戦、交える事になるのです。と9月7日までの動きです。