8月2日、豊臣秀次が切腹!

皆さんも知っての通り、秀次は養子です。しかし、側室の淀君の間に子供ができたら状況は変わります。かつて秀次が各地の諸将に送った「有事の際には秀次に忠誠を誓う」といった内容の書状が秀吉は気に食わず、高野山で自害させます。

この時、秀次の息子が4名と娘が1名・・・そして、正室や側室・侍女などの女性が34名、一族もろとも処刑された事で、その悲劇は、より悲惨さを増す事となります。
7月15日に高野山で自害し、一族が処刑されたのは、それから半月ほどたった8月2日で、その場所が、瑞泉寺の建つ場所・・・当時は、三条河原の中洲となっていた場所なのです。
しかし、その遺体は縁者へと下げ渡される事はなく、刑場の横に掘った大穴の中に次々と投げ込まれ、最後には、その上に四角垂の形に土石を積上げて塚を築き、頂上に、高野山で自害した秀次の首を収めた「石びつ」を据えたのです。

この塚は、「せっしょうつか(摂政塚・殺生塚)」と呼ばれるようになります。
長くなるのでこれにて!(天下布武隊の真田幸村が長い!というので・・・)