今日はいい天気でしたなーーー

今日来ていただいたお客さま、ありがとうございました。今日はなぜか、首と肩がパンパンでなんともなりません。さて、久々に今日は何の日?です。今日は信忠の子(三法師)秀信が没した日でござる。皆さん岐阜城の戦いをご存知でござるか?会津征伐を口実に伏見城を出た徳川家康は、小山付近に布陣し、ここで軍議を開きます。

ともに会津征伐のために畿内を出発した武将たちに、敵は会津ではなく、西軍・石田三成である事を告げ、このまま自分に味方するか、畿内に戻って西軍につくかの判断をあおいだ有名な『小山の軍議』です。軍議では、豊臣秀吉亡きあとに浮上した豊臣家内での亀裂によって「三成、腹立つ!」で凝り固まっていた福島正則が真っ先に手を上げ、それに触発された武将たちが「我も」「我も」と同調し、その場にいたほとんどの者が家康の東軍につく事を表明します。

その時、先頭に立った福島正則はもちろん、一緒に手を上げた池田輝政山内一豊は、自らの居城と蓄えた兵糧を家康に差出し、先陣を切って東海道を西へと進みます。
やがて、一豊の掛川城静岡県)を経て、正則の尾張清洲城(愛知県)へとやってきた彼らの前に立ちはだかるのは、豊臣側につく織田秀信の居城・岐阜城です。あの美濃のマムシの異名をとる斉藤道三が残した難攻不落の稲葉山城を、やっとの思いで手に入れた信長が、城下町の名を岐阜に改め、さらに難攻不落の城に造りかえた岐阜城・・・後に安土城に移ったとは言え、信長が生涯で最も愛した城はこの岐阜城でした。

日本最初の天守閣を、それも、山の頂上とふもとの二箇所に持ち、豪華絢爛たるその造りはまるで宮殿のようであったと言います。

しかし、今回ばかりはそんな難攻不落の岐阜城と言えども、いきなり城に篭もっての籠城作戦とはいきません。なぜなら、迫り来るのは、福島正則池田輝政山内一豊の三人なのですから・・・。

福島正則山内一豊は、もともと秀吉傘下の武将。
その秀吉は信長の傘下で、信長がこの岐阜城にいた頃は、彼らも皆、岐阜に住んでいたわけで、彼らにとって岐阜の城下は庭みたいな物です。

池田輝政に至っては、信長とは乳兄弟の家系で、かつては岐阜城主を務めていたのですから、城内のすべてをお見通しです。

彼らが岐阜城に迫る時、秀信は果敢にも撃って出ます。
それも、ド肝を抜くようなド派手な衣装で・・・。

もちろん、これは、もともと秀信が派手好きであったという事もありますが、どうやら彼の一つの作戦だったようです。

それは、迫り来る彼らに、できるだけ大きく、そして強く見せたいがため・・・なかでも、未だにかつての主君・信長を愛してやまない池田輝政に、亡き信長の姿を思い起こさせるような派手ないでたちで登場し、まさにド肝を抜いてやろうという作戦だったのです。
しかし、やはり、地の利を知り尽くした彼らは強かった・・・。
木曽川の河田の渡しを渡った彼らは、みるみる秀信の陣へ殺到し、次々と首級をあげていきます。

やっとの思いで、秀信自身は岐阜城に逃げ帰り、次は籠城作戦で・・・と考えますが、野戦での負け戦を耳にした城兵は、もはやヤル気なし。

翌日には、福島隊、池田隊、山内隊が一斉に、城下へ突入し、城に向かって総攻撃をしかけ、あっと言う間に櫓を落とし、さらに奥へと殺到します。敵は総勢3万5千の大軍。
それにに対して、城を守るのはわずか6千。
しかも、もとよりヤル気ゼロの城兵たちは、抗戦を断念・・・岐阜城は落城してしまいます。

秀信は武士の習いとして自刃して果てようとしますが、これを池田輝政が説得・・・

さらに、敵将であるのだから処刑は当然と言う徳川の武将に対して、福島正則が彼の助命を懇願・・・「もともと、我らは、恩義ある織田家に対して戦を挑んでいるわけではない。
しかも、もうすでに降伏をしている者をあえて殺す必要はないのではないか?」と説得します。結局、秀信は高野山へ送られ、仏門に入り、その5年後、(1605年)5月8日・・・26歳の若さで亡くなる事となります。あの天下の勇将・信長の嫡流は、ここで断絶という事になってしまうのです。            
 長くなりましたが・・・


5月4日のイベントに着用した鎧とマントが店に展示してあります。