では、久々に・・・・

今日は何の日?です。実は、織田信長が金ヶ崎から撤退した日です。皆さんも知っての通り、浅井長政が離反し朝倉とともに挟撃するのです。中身を話すと長いので一つだけ、こんな深〜い・いい話をお聞かせしましょう。信長は浅井が離反した事を嘘と思いなかなか撤退しようとしませんでした、が、お市からあるものが届きます。その進物とは小豆をギッシリと詰めた袋・・・その袋の両側をしっかりと紐で結んだ物でした。

その袋を見て、「袋のねずみ」ならぬ「袋の小豆」・・・つまり、この進物が、現在の自分の置かれた状況・・・浅井と朝倉に挟まれ、逃げ道のない状況である事を示した謎かけである事に気づいた信長は、ただちに全軍に撤退命令を出したのだとか・・・。ただ、お市の方のエピソードの真偽は別として、この日、最初は長政の離反を信じなかった信長が、どこかの段階で真実である事を知り、退路を絶たれる危険を察知し、危機一髪で脱出した事は確かです。

従えたのは、わずか10名ほどの親衛隊だけで、しかも、攻め上ったルートを避け、若狭街道を通っての南下・・・途中、高島郡滋賀県)の朽木谷(くつきだに)を通過した時には、地元を支配していた朽木元綱が甲冑姿で現れ、「もはやこれまで・・・」と、死を覚悟する瞬間もあったようですが、逆に、元綱を味方に引き入れた事で、九死に一生を得て、4月30日に京都へとたどりついています。

世に言う「金ヶ崎の退き口」として有名な、この撤退劇・・・撤退戦で、最も危険とされる殿(しんがり・隊の最後尾)を努めた事で、一躍その名を挙げる秀吉ですが、秀吉のほかにも、明智光秀池田勝正らが殿を努めていたそうです。

「一に憂(う)きこと金ヶ崎、二憂きこと志賀の陣、三に福島・野田の退き陣」
と、『武家事記(ぶけじき)』に称されるほどの、信長・危機一髪の4月27日でした。では、では・・・・・深い〜と思った人は心のなかで深〜い〜をしてくだされ!ではでは・・・・・