どうも、どうも・・・

信玄の旗本・小杉左近が言った言葉・・家康に 過ぎたるものが二つあり唐の(かしら・兜)と 本多平八
3000余りの兵を率いて・三方ヶ原戦いの前哨戦とも言える一言坂の戦い。
自ら浜松城を出陣しますが、まずは、先発した偵察隊が見附付近にて武田軍と遭遇・・・小競り合いの中、劣勢を強いられた徳川軍は、退却をはじめますが、この時、殿(しんがり・軍の最後尾)を努めたのが、徳川四天王の1人に数えられた本多平八郎忠勝。合戦は攻めるより退却のほうが数段難しく、さらに、その殿は、最も重要で最も危険な役目です。

ただ、この時、最前線にいたのは偵察隊ですから、もちろん、忠勝も、はじめは家康の本隊近くにいたわけで、まずは、家康に形勢の不利を伝え、退却をうながしますが、やはり、最前線の兵士たちを見殺しにする事はできません。

忠勝は、急ぎ、最前線に赴いて、撤収をはかろうとしますが、すでに、武田軍に追いつかれ、一言坂(ひとことざか)にて、今、まさに、本格的な戦闘が開始されようとしていたのです。

両者の距離は、わずか20m・・・そのわずかの場所に、ただ一騎で躍り出たのは、黒糸の鎧に、鹿角の兜を身につけた忠勝!まずは、味方のほうに向けて「撤収〜!退け!」と叫び、今度は、馬を反転させて、堂々とした姿で敵を睨みつけ、蜻蛉切(とんぼきり)の鑓を高くかざします。

この大胆不敵で気迫に満ちた忠勝の行動に、武田軍は唖然とし、一瞬、何もできなかったと言います。

こうして、偵察隊の兵を押し戻した忠勝は、自らが殿となり、撤退を開始するのです。

追いすがる武田の兵には馬を返して戦い、配下の鉄砲隊が火を吹けば、再び撤退を開始する・・・幾度となく、そんな戦いを繰り返しながら、やがて、天竜川を無事に渡河し、なんとか、武田の兵をまく事に成功しました。

戦闘を終えて、家康の前に現れた忠勝・・・指物はボロボロにちぎれ、鎧には5本の矢が刺さり、顔は真っ黒に汚れてはいたものの、一つの傷も負っていなかったのだとか・・・さすがです。ではでは・・・・・