今日はお疲れです。

今日はなにを話しましょうか?おおーそうだ、みなさん長浜城って知ってますか?秀吉、最初の城。最初は小谷城にはいるのですが、冬は雪が降り拠点活動するには不便すぎる、ってことで今浜に目をつけ信長の1字をとり長浜とします。新しい城下町での秀吉は、昔ながらの座を廃止し、楽市制を採用して商売を自由化し、税金の優遇措置なども積極的に行い、町を区画化して、町民による自治制度なども導入しました。

このような制度導入に喜んだ城下の人々は、皆、積極的に築城に協力したそうで、その姿は、平城ながらも、琵琶湖の湖水をそのまま掘とした本格的な水城だったと言います。

信長の死後の、あの清洲会議で主導権を握った秀吉の采配により、この長浜城柴田勝家の配下の城となり、勝家は、ここを、甥の勝豊に守らせます。

しかし、そのわずか半年後の12月・・・秀吉は、思い出深いはずの、この長浜城を攻めるのです。

そう、あの賤ヶ岳の戦いです。すぐに長浜城を開城させた秀吉は、ここを軍事拠点に勝家や、彼と共同戦線をはる神戸信孝(かんべのぶたか・信長の三男)との戦いに踏み込んだのです。

そして、ご存知のように勝家は滅び、信孝も自刃に追い込まれ、再び、秀吉の配下となった長浜城には、あの山内一豊(やまうちかずとよ)が入ります。

その後の小田原の北条攻めで、北条氏が滅亡した後に一豊が掛川城主となったため、この長浜城は、秀吉のもとで頭角を現してきた石田三成(いしだみつなり)の配下となりますが、ご存知のように、石田三成の拠点は、少し南の佐和山城・・・そのため、荒廃した長浜城真宗門徒の惣会所に利用されたりもしますが、その三成も、あの関ヶ原で敗れます。

やがて、徳川家康の命により、家康の異母弟の内藤信成が入って大修理を行いますが、まさに、あの大坂の陣で豊臣家が滅亡したその年、信成の後を継いでいた息子の内藤信正が、摂津(大阪府高槻城主となったのをきっかけに、長浜城は廃城となります。豊臣に生まれ豊臣と共に散った城ですな・・・・ではでは。