皆の者、可児才蔵を知っておるか・・・

またの名を「笹の才蔵」・・・。「武士は二君に仕えず」のはずですが、可児才蔵は、とにかく主君をよく変えた人です。はじめは斉藤龍興に仕え、柴田勝家森長可明智光秀前田利家神戸信孝・・・このメンツを見ておわかりの通り、中には敗戦して滅亡に追い込まれたために主君を変えたケースもあるわけですが、主君がそのような憂き目に遭っても、才蔵は生き残って、再び乱世の荒波を泳いでいくのですから、なかなかのものです。
その神戸信孝羽柴秀吉に謀略によって自刃に追い込まれた後、才蔵は秀吉の甥である羽柴秀次に仕えるですが、その時に、あの小牧・長久手の戦いが勃発します。この時、まだ戦いに不慣れな秀次が、はやる心を押さえきれず、ただひたすら軍を進めようとするのを・・・
「今回の敵は強大ですから、無理に進めば大敗します・・・一旦退きましょう」
と進言するのですが、秀次はその言葉を聞かず、さらに進もうとしたました。

いくらアドバイスを聞いてくれなかったとしても、相手は主君ですから、普通なら、ここで「しゃーないか」と、ついていくところですが、さすが、主君から主君へ渡り歩きまくりの才蔵は違います。

「じゃあ、好きにすれば・・」
と、配下の兵だけを連れて、さっさと自分だけ退いてしまうのです。

かくして、その進んだ先で、徳川家康軍の奇襲を受けた秀次軍は大混乱となり、またたく間に敗北・・・しかも、そのドサクサで秀次は馬を失い、徒歩であたふたと戦場を離脱するのですが、そこに通りかかったのが、颯爽と馬上にまたがった才蔵・・・「おおー才蔵、その馬貸してくれ!」と、主君・秀次・・・
すると、才蔵はひとこと・・・
「雨が降る日に傘を貸すアホはおらん!」
との捨てゼリフを残し、去っていったというのです。

で、この一件で、浪人の身となった才蔵、やがて、秀吉の家臣で賤ヶ岳の七本槍の一人・福島正則の傘下に入り、関ヶ原の合戦へ参戦する事になります。

この日、徳川軍の先鋒を努める事になった福島隊・・・。

才蔵は、その福島隊の先陣・・・つまり、一番前の位置で、「真っ先に突入してやろう」と、大ハリキリで、開戦を今か今かと・・・
と、その時、スルスル〜と、才蔵の横をすり抜けるのは、あの井伊直政です。実は、この直政、豊臣の家臣である福島隊に、関ヶ原の先陣を切らせる事に、どうも納得が行かない・・・「やはり、ここは、徳川配下の自分が・・・」と、心に決めての行動でした。

直政は、なんだかんだとウマイ事言って、才蔵の前に出て、あれよあれよ言う間に、敵方に攻撃を仕掛けてしまいました。

まんまと、先を越されてしまった才蔵・・・彼の性格が、その屈辱を許すワケがありません。

押えきれぬウップンを、合戦へと向けた才蔵は、鬼神のごとき活躍で、次々と敵を討ち取り、持ちきれない敵の首には、その口に笹の葉をくわえさせ、その場に置いたまま、さらに戦い続けます。

やがて、天下分け目の合戦にも決着が着き、夕方には、本陣で、家康による首実権が開始されるのですが、先の笹をくわえさえた首は、なんと17個・・・この日の徳川軍一の数だったのです。

この才蔵の働きに大喜びの家康は、「今日から“笹の才蔵”と名乗れ」と、直々に異名を与えられたのです。主君から主君へ渡り歩いてきた才蔵さんは、この福島正則を最後の主君として、その生涯を閉じる事になるのですが、関ヶ原の合戦を終えた晩年の彼は、非常に穏やかで、やさしい人だったと言います。

そんな彼は、一生を通じて愛宕権現を信仰していて、生前は「俺は愛宕の縁日の日死ぬんだ」と、その言葉通り慶長十八年(1613年)6月24日、愛宕の縁日の日に、その60歳の生涯を終えたのでした。
 と、こんなところでではでは・・・・